自然・環境

◎映画《地球交響曲第三番》を観て――自然・共生・畏敬

 どんな映画かと聞かれて、つい、「環境」とか、「自然との共生」という言葉が出てきてしまい、自分の表現力の無さに歯がゆさを覚えます。これらの言葉が使われ始めた時とは違い、今やコマーシャルにも使われていて、悪い意味で通俗化してしまっていて、誰に話しても、「ああ、環境ね」ということになり、「ええ、環境って?」と話を深める方向にはいきません。

 この映画を表現する時に、「環境」とか「自然との共生」という言葉をとりあえず使うとしても、それは、例えば最近話題となったトヨタのガソリンエンジンと電気モーター併用のハイブリッド乗用車「プリウス」に対して使われる場合とは違います。商業ベ-スになった  「環境」は、「環境」をキーワードに展開された運動の成果であると同時に、その核心を骨抜きにされたものであるからです。私たちはもともと「環境」という言葉の持っていた方向を、絶えず捉えなおしていく必要があります。

 《地球交響曲》は、自然と向き合って生きている数人をオムニバス風に取り上げている映画で、《第三番》は特に、星野道夫という写真家が中心です。アラスカで、特に熊を中心に写真を撮ることをライフワークとしていた彼は、この映画で取り上げられる人物として最初に決まっていながら、熊に殺されてしまい、直接登場することはできませんでした。

 この映画で初めて、星野道夫のことを知りましたが、実は新聞で熊を専門とする写真家が熊に殺されたということは読んでいて、「油断があったのではないか」「自然(熊)を甘くみていたのではないか」という思いを持ったことを覚えています。その写真家こそ星野道夫であったわけです。映画によれば、彼は20歳ぐらいの時に、古本屋で見たアラスカの写真に魅せられ、当てもなくその写真に写された町の町長に手紙を出して、受け入れられ、滞在したのが、アラスカでの彼のライフワークの始めだったということです。

 この映画で最も印象に残ったのは、彼が生前、「不遜かもしれないが、熊に人が襲われたというニュースを聞くと、まだ、そういう緊張感のある世界に自分が生きていられることにホッとする」というようなことを言っていたということです。そして、まさに彼自身が熊に襲われ死にました。

 彼が向き合っていた「自然」は、一面緑に整備されたゴルフ場で、陽を浴び、安全に満喫する「自然」とは明らかに違います。自然は私たちを暖かく迎えてくれる時もあれば、厳しく危害を加える時もあります。その両面あってこそ、自然なのであって、自然との共生というのは、そのいう自然との付き合い方を探る試みであり、同時に自然内存在である人間の生のあり方を探る試みでもある筈です。ゴルフ場を代表とする、「自然」を取り入れた施設が最近は多く建設されているようですが、取り入れられた「自然」は自然であって自然でなく、一方で、こういう施設の多くは、創造力豊かな自然を破壊し、環境を悪化させています。

 今の社会、特に日本社会の場合、過剰に安全な環境を整備しようとし、個々の自由で、しかし緊張感を必要とする自然との付き合いを邪魔しています。不用意に山に入っても、例えば、熊に襲われることがない程、安全に整備されてしまった自然は、もはや自然ではありません。付き合う個々の人間の緊張感こそが、自然内存在である人間の生命力を逞しく、創造的にします。

 例えば、日常生活の中での病原微生物との付き合いを見ることができます。体内にも病原微生物は常在しています。しかし、それだけで人は病気になるわけではありません。人のからだの免疫力が充分働いていれば、人は病気には簡単にはなりません。もしなっても、病原微生物との戦いが症状として現れ多少苦しむことはあっても、回復することができます。免疫力とは、結局、無意識の内に緊張感を持って病原微生物(自然)と付き合っていることの成果に他なりません。

 熊に人がまったく襲われない世界、つまり熊が撲滅されてしまったり、熊が熊であることをやめてしまった世界とは、この場合、人が無菌室に生きることになった世界です。最近の医療ニュースの中で、無闇に抗生物質が使われる為に、病原菌がそれに対する耐性を持つようになり、また新たな抗生物質が求められるという問題があります。自然を無菌室にしようとする試みの行く末を教えてくれます。そして、これはそのまま、社会が自然を管理し、個々には安全な自然のみ享受させようという、過剰におせっかいな政策に当てはまります。

 自然内存在である人間にとって、もちろん自然は征服とか管理とかという言葉で付き合う対象ではありません。そこに共生という言葉が生まれます。共生とは、人が緊張感を持って付き合い、そうする時に人が生かされ、創造を生む関係性ですが、自然は人にとって、そうした関係性では、おさまらない存在です。

 この映画《地球交響曲》は個々の自然物との共生というより、それらの母体たる自然、つまり地球という生命を描き出しているわけです。人間にとって、それは畏敬を持って接することしかできない存在です。自然を畏敬するとは、人智の限界を知るということでもあります。

  自然内存在である人間に、自然の征服はできません。自然は人間にとって逃れられない環境であって、時に恩恵を、時に危害を加えるものとして意識し、付き合うことしかなく、言わば自然との緩急ある、ある意味で緊張感のある付き合い方を会得することが大切です。発達したと思われる科学的知識を得意がることは、実はお釈迦様の手の上を動き回る孫悟空に 過ぎません。

  人の生にとって、同じ花であっても、同じ風景であっても、その接する人の状態によって、その意味は変わります。どのようにその花と出会うか、その風景と出会うかによって、変わります。

 28歳の頃、私はヒマラヤのトレッキングに出掛けました。向こうで知り合ったタダシと二人でアンナプルナ山群の周りを1周するコ-スで、通常20日かかります。一番奥にトロン峠(5400メ-ト ル )があって、もし、それを越えられなければ、同じ道を戻って来なければいけません。夏でもあり、3000メ-トル付近まで村があり、日本で夏山の縦走を経験している人ならば、まったく大したことのないものです。といって油断すれば、危険は大きく。日本の山と違って高山病の危険があります。

 トロン峠を越える前の最後の村がマナンで、 次に途中の山小屋に泊まり、翌日、峠を越えて、聖地ムクティナートという村にたどり着きます。タダシは私より体調が悪く、峠を越える日には、頭痛と下痢に少し苦しんでいました。外は霧模様の天気です。高山病となれば、下るしかなく、同じ下るにしても、峠を越えていれば、先に進むことができます。

 私たちは越えることができました。そして、峠を越えて、しばらくして、峠を包んでいた雲から抜け出せたのでしょう。視界が開け、遠くダウラギリが見える山並みを横切って、きんとん雲のような雲が移動して行くのが見えました。下には聖地ムクティナートが見え隠れしています。

 同じ年齢でも、路上のアクセサリー売りであるタダシと、1年前まではコンピュータ・プログラムを作っていた私。同じ風景を、ヒマラヤ遊覧飛行の飛行機から見ていた人がいたかもしれません。飛行機から見ていた人の見た風景の方が価値が低いというつもりはありません。同じ風景であっても、それを見る人の見るに至る状況によって価値は違っていて、私にしてみれば、この風景は“体験”として残るものとなりました。 

                (1999年5月 鈴木斉観)

 

◎「地球温暖化」により歪められるエコ その1

第一次そして第二次世界大戦と続く戦時期、多くの良心的人々は、例えば「大東亜共栄圏」、あるいは「愛国」という言葉を信じた。その結果、日本の正義を信じ、国に協力した。正義感が強く、行動力がある人ほど、戦争に非協力的な人々を「非国民」と非難し、積極的に国策に協力した。

歴史を振り返ってみると、時代を動かす行動力は大切だが、怖しいのは、その行動を導く認識が誤っていて、行動の方向が誤っていた場合である。行動力が大きい人ほど、被害を大きくする。行動力が大きい人、社会に影響力が大きい人ほど、自らの認識に批判的な目を向けなければいけないのである。

今、気になる認識は「地球温暖化の原因が人間のCO排出にある」という事である。この説は国連の報告書でも認められた。最近の「ためしてガッテン」(NHK)も、その説を大前提にエコを勧める内容であった。この説(認識)は10年前の京都議定書の時からあるわけだが、今は仮説から「事実」となり、常識となった。環境問題は今、新たな時代に進んだ。例えば過去に、「公害」がキーワードだった時代、「せっけん」がキーワードだった時代があった。今は「地球温暖化」がキーワードとなって、その原因とされるCO₂を排出する人間活動を減らす事がエコ、つまり環境問題への処方箋の中心的地位を占めるようになった。

「地球温暖化」をキーワードとしたエコの動きは、以前より多くの人々に浸透し、例えば買い物袋持参やクールビズなど、好ましい方向で発展して来ていたように思えた。

ところが、その雲行きが怪しくなって来ている。正義感があり、行動力がある人の、ある意味で暴走が心配される状況になって来た。脱原発政策を進め、環境先進国と思われていたドイツのメルケル首相は「原発廃止を望む者は、温暖化防止をどう達成するか真剣に責任を果さなければならない」と発言したと報道されている。例えば、温暖化により海水が増加し海に沈む島国を救おうと、CO削減を悲壮に訴える人にとっては、「原発もやむなし」という事になってしまうのではないか。

多くの無毒化できない廃棄物を排出し、暴走した場合に甚大な危険をもたらすのが原発である。エコになり得ないはずのものが「地球温暖化」というキーワードの下に勢力を取り戻そうとしているのである。

本当に地球温暖化の原因は人間の

CO排出にあるのか?科学的な結論が利害関係など人間的社会的理由で歪められ、しばらくあたかもそれが真実である如く、私たちの行動を規制することはよくある。大本営発表を信じ、戦争に積極的に協力した良心的な人々の二の舞をしない為に、『CO地球温暖化説は間違っている』(槌田敦著、ほたる出版)を読んで欲しい。

雑誌『食品と暮らしの安全』には、槌田氏の説他、現在行われているCO排出削減の対策がそもそも削減対策にもなっていない事などが説かれている。(20076月夏至近く)

参考:『食品と暮らしの安全』203号・215

◎「地球温暖化」により歪められるエコ その2   『地球交響曲』の不穏な行方

 映画『地球交響曲第六番』を観た。多くの人に観てもらいたい映画であった。第五番に原発容認を臭わせる部分があって、この最新作にも不安があったが、そうした部分はなかった。ところが、そのパンフを見ていて、私の不安が的外れでないことが分かった。

 パンフの「龍村仁監督推薦、ガイアを知る12冊」に、映画の出演者であり、「ガイア理論」を提唱したジェームズ・ラブロック氏の『ガイアの復讐』が紹介されていた。曰く、「人類にほんとうの脅威は核ではなく、地球温暖化だと言う」と。

第五番には原発の話題は全く出てこなかったが、そこで強調された「両刃の剣」という言葉が気になっていた。「科学は両刃の剣」だと言うのだ。それは一般的によく言われているが、なぜここで強調される必要があったのか。そして「科学は両刃の剣」という一般的認識は改められなければいけないものである。使い方次第で役に立つ場合もあれば、危険な場合もあるとは浅薄な考えである。科学的な技術自身が既にある特定の価値観を持っている。社会がその技術を認めるということは、それをどう使うかという問題以前に、その技術が持つ価値観(社会の方向性)を受け入れるということになる。私は原発や遺伝子組み換え技術を拒否したい。自然を支配するという価値観を改めて、人類が自然内存在であるという自覚を持って、科学は活躍すべきである。「全ての存在は響き合っている」(『地球交響曲第六番』)という感性がそうした価値観につながらないのは悲しい。

 『ガイアの復讐』を読んでみた。「命にかかわるほどの耐えがたい猛暑や、世界のあらゆる沿岸都市を脅かす海面上昇に比べれば、原子力のもたらす脅威などはとるに足らないものだ」とあった。そして氏の原子力の脅威への認識は、チェルノブイリ事故について、タイムズやBBCが、放射能飛散の結果、ヨーロッパとロシアで三万人以上の人々が犠牲になったと報道したことに対して述べている部分で分かる。「私は世界保健機構(WHO)の医師や放射線生物学者の発言のほうを信じる。彼らは事故の十四年後と十九年後に、チェルノブイリからの放射能漏れによって汚染された地域の人々の健康を調査し、死亡したのがそれぞれ四十五人と七十五人のみだったという確証を得た。亡くなったのはプラントの労働者と消防士、そして勇敢にも燃える原子炉で人と戦い、事後処理を行った人々である」。

人類の排出するCO₂と森林破壊によって、ガイアの処理能力を越えて温暖化していると診断した氏のそれに対する処方箋は、『地球交響曲』に感動してきた私には余りに貧相であった。核融合発電が可能になるまで、原発でエネルギーを賄う一方、工場で化学的に作られる食品を食の中心とすることで、食料生産に使われていた土地を森林化するという処方箋である。

龍村監督にとって、東京電力がスポンサーであることは何の葛藤もないことだと分かった。残念ながら、エネルギー消費の少なく、しかし人類にとって魅力的な循環型世界への想像力を、第七番に期待することはできないのか。

              20078月処暑)

◎「地球温暖化」により歪められるエコ その3   エコ気分ではなくエコ文化を

今や、CO温暖化説は常識となり、「地球温暖化」はエコのキーワードとなって社会が動いている。私自身はCO地球温暖化説は間違っている』(槌田敦)を読み、またCO温暖化説をインターネットで調べた結果、槌田氏側に傾いている。氏によれば、温暖化には地球の長期的な気候変動と大気汚染が複合している可能性が高く、温暖化することで、海水からのCO発生が増えていると。しかしまもなく始まる寒冷化こそ、飢饉につながり、人類の緊急の課題であると。しかし、現在の「地球温暖化」をキーワードとする社会の動きは簡単には変わりそうもない。そこでとりあえず重要なのは、その不確定な緊急性に扇動されて、原発が推進されるなど、歪められたエコに人類の未来を台無しにされないようにすることだ。そもそもCO地球温暖化説を仕掛けたのは原発業界だという。CO温暖化説は決して純粋に科学的論争から生まれて来ているものではないことを私たちはおさえておかなければならない。

中部電力が新聞に「原発はCOを排出しない」と全面広告を出していた。中には「発電時には排出しない」とあった。槌田氏によれば、ウラン燃料の製造や発電所の建設などで大量の石油が投入され、COを大量に発生しているという。中越沖地震による柏崎原発での事故を見ると、放射性廃棄物対策、対テロ安全対策に加えて、地震対策の為に、更にエネルギーが投入される必要性があることが分かる。また出力調整が難しい原発は運転時にはフル稼働しなければならず、電力の安定供給の為には事故に備え、それに見合う分の火力発電や水力発電を維持しておく必要がある。それもまた原発のコストとしてかかる。

槌田氏は1992年に『環境保護運動はどこが間違っているのか?』という本を出して、牛乳パックや古紙のリサイクル運動に水を差した。よく読んでみれば、「地球温暖化」問題よりも身近な小範囲の問題だけによく納得できる。牛乳パックに使われている良質のパルプを再度使う為に、洗浄・回収・フィルム除去にエネルギーが使われている。牛乳パックが単純にゴミとして燃やされる場合とリサイクルされる場合のエコ度合を全工程にわたって比較してみなければいけないのである。

エコ気分では実際のエコにはならない。太陽光発電や風力発電にしても、太陽光・風力の不安定さに見合う効率が必要であるが、その建設・維持・廃棄に必要なエネルギーが充分に計算されているようには思えない。電気はクリーンでエコ気分にさせるが、石油やガスの様に運搬性が高くなく、送電ロス・蓄電ロスが多く、エネルギー効率は高くない。使用時点でのエコ・イメージに思考を停止させないで、全過程を検討してみなければいけないだろう。

何よりもエコであるのは省エネであるわけだが、偽物・本物を問わず、省エネ製品が開発されることによって、現在の大量消費は維持・拡大されている。例えばエコ電球が広まるのも悪くないが、それ以上に深夜まで起きているという生活スタイル(文化)が変わることの方が重要だ。エコ気分ではなく実際のエコになる生活スタイル(文化)を広めていくことが必要である。

2007年9月白露)

◎「地球温暖化」により歪められるエコ その4   森林は二酸化炭素を吸収するのか?

1年前に図書館に予約していた本がやっと回って来た。『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(武田邦彦)である。同じ様に世間のエコ運動に水を差す本を書いた槌田敦氏については以前から知っていて、基本的に信頼を持っていたが、この著者については全く知識がない。納得できない部分もあったが、概ね賛同できた。映画『地球交響曲』に登場するジェームズ・ラブロック氏が、核融合発電など自然を支配する方法での科学のあり方を良しとするのに対し、この武田氏は身土不二的な暮らしが大切だと言う。細部に関する意見の食い違いより、根本的な価値観が重要である。武田氏に更に信頼がおけると思えた。

この本の中で示唆を受けたことの一つは、「森林はCOを吸収するのか?」という問いに対する答えである。

CO地球温暖化説が常識化した現在、CO排出につながる行為をした代わりに、森林を増やすことに貢献し、CO排出をプラス・マイナス0とするゼロ・エミッションがエコに関心ある人々によって行われている。それは森林がCOを吸収するという前提があるからだ。ところが、武田氏が指摘する様にじっくりと考えてみれば、その前提が成り立たないことが理解できるだけでなく、地球環境の成り立ちについての踏み込んで考えることができた。

先ず、「森林はCOを吸収するのか?」である。植物は光合成によりCOを吸収し、酸素を排出している。植物の集合体である森林は当然、COを大量に吸収してくれると思うわけである。しかしCOを吸収するのは主に成長期である。植物にも死は訪れ、土に戻る。土に戻る過程では、微生物に分解され、COを排出する。つまり長期的に見れば、COの吸収と排出は同じとなる。COを吸収するとは言えないわけである。

森林はその最終的なCO収支にだけに着目すれば、砂漠と変わらないわけである。では砂漠との違いは何か。それは循環ということだ。酸素とCOがバランス良く循環する生態系としての森林こそ、活き活きとした森林であるわけだ。その循環の中に組み込まれる様に人類が生活する文化を創ろうとすることが真のエコ運動である。

CO地球温暖化説に関連して言えば、現代はCO循環のバランスを崩し、多量にCOを排出しているわけである。石油や石炭などは生物の死骸により長い年月を経て生成されたもので、それは貯蔵されたCOと言っていい。それを短期間で消費し、自然の循環能力を上回って排出しているのが問題なわけである。私は槌田敦氏に従ってCO地球温暖化説を正しいとは思っていないが、CO排出を減らそうとする方向性には賛成する。しかしそうした方向での動きの結果、何か起っているのか。バイオ燃料の為の食物価格高騰、原発増設の動きによる原発事故の危険増大等、温暖化以上の問題が起きている。排出権取引など、壮大な虚構の遊びにしか思えないが、これも現実を動かし、新たな問題を引き起すだろう。省エネの機械が開発されても、機械への依存度を際限なく高めようとする現代文明をそのままにしておいては、元の木阿弥となる。

地球の命は様々な循環によって成り立っている。CO循環だけが問題なのではない。他の循環もまた、現代文明は滞らせ、更に滞らせようとしている。(2008年5月小満)

◎「地球温暖化」により歪められるエコ その5 エコ論議の背景にも経済原理(儲け話)

『食品と暮らしの安全』(2009/3)で、物理学者で経済学者の槌田敦氏がいわゆる地球温暖化問題について答えているのを紹介する([ ]には質問を略した)20093月啓蟄)

[オバマ大統領が温暖化対策としてCO₂削減する政策を打ち出したが。]人間の排出したCO₂で温暖化したと多くの人たちは信じています。そして、CO₂の排出を減らすことが一番大切なことと思い込んでいます。

最近、私たちのグループは気温とCO₂濃度の実測値から「温暖化が原因で大気中のCO₂濃度が増えている」という事実を新しく発見しました(近藤邦明氏のホームページを参照)。これは物理学会と気象学会で口頭発表し、論文も書きました。両学会とも私たちの結論が事実であると認めているのですが、それを学会誌に掲載することをためらっています。

対して、CO₂濃度増で温暖化したという事実は存在しません。通説はそのような事実もないのにCO₂で温暖化したというのです。これでは「科学」ではありません。

また通説では、化石燃料の燃焼で放出したCO₂の半分が大気中に溜まった結果、この45年間でCO₂濃度は64㏙増えたと主張しています。これも間違っています。

私は化石燃料を燃やした結果、大気中に溜まった量は最大でも8.5㏙と計算しました。この値以上には増えないのです。これも両学会で発表しましたが、反論は一切ありません。否定しようがない事実なのです。

それなのに世界中がCO₂を悪者にして、その削減を呼びかけています。その目的は原子力発電の復活です。

[スウェーデンもドイツも原発回帰の方針に変わりましたね。]そうなのです。庶民はまんまとだまされたのです。経済が冷えてきたので、大金持ちたちは原発産業の振興でまた儲けようとしているのです。

原発は軍備と同じで、これを推進するために、政府は巨大国家予算を投入することになるからです。その利益をそっくりいただこうとする人たちの陰謀です。人間の大騒ぎには必ず誰かの儲け話が存在するのです。

[原発は嫌だけど、太陽光、風力に期待している人が多いが。]これもだまされているのです。現実の太陽光や風力は自然エネルギーではありません。これらは科学技術と石油で作るエネルギーです。どうして見抜けないのでしょうか。

太陽光発電をするのには光電池が必要です。これは半導体で作りますが、その半導体を作るのに大量の電力が必要です。それは水力だというのですが、その建設に石油が使われています。風力も同じです。石油文明では、すべて元をたどれば動力や原料は石油・天然ガス・石炭につながるのです。

石油で作るエネルギーですから、石油代替エネルギーと呼ぶのはそもそも不当です。その違いは効率です。同じ1キロワットの電力を作る石油の使用量の問題です。これは価格で表現できます。いずれも科学技術ですから、価格は人件費の割合が少なく、石油の使用量を反映しているからです。

もっとも高くつくのは太陽光です。次いで風力と原子力です。つまり、火力発電がもっともエコなのです。

価格競争に負けたからこれらのエネルギーは補助金を当てにしています。これもだましです。補助金は税金または国債(子孫の税金)で支払われます。この税金を稼ぐのに働かなければなりません。そのときまた石油を使います。

電力会社は太陽光発電について高額購入して設置者に補助していますが、これは電気料金になって、消費者の負担になります。これも石油を消費して稼いだお金です。

[日本経済新聞(2009/2/2)に「地球は当面寒冷化」と、大きな記事が掲載されたが。]温暖化がいつまでも続くわけがないのです。寒冷化の傾向は以前からありました。1970年代の気象学者は、寒冷化説を唱えていました。ところが1980年以降、逆に温暖化傾向という事実を突き付けられて変節し、全員が温暖化論者になったのでした。

・・・(省略)・・・

寒冷化したら、もっとも困るのは食糧です。小麦は現在寒い地域で生産していますが、寒冷化では生産はできません。世界の温暖な地域はほとんど砂漠化です。

今、必要なことは、温暖化の対策をすることではなくて、寒冷化したときの食糧対策を考えることです。(以下省略)

 

◎原発震災から脱原発へ

想定外の事態が起こった時に莫大な被害を及ぼす原発を造ること自体が大間違い

巨大津波と原発震災が今回の大震災の特徴である。巨大津波だけなら、既に支援・復興活動が課題となり、阪神・淡路大震災以上のボランティアが被災地に入っているはずの時期である。しかし福島第一原発は、依然、危険な状態が続いていて、支援・復興の動きを妨げている。

今回程の巨大津波は想定外と言われても仕方ないと思えるが、原発震災の方は想定外と言われるべきものではない。原発震災の危険性は以前から警告されていた。地震だけでなく、テロやロケット攻撃の危険もある。原発は想定外の事態が起こった時に莫大な被害を及ぼす。この事は想定外ではなく、想定されていることだ。この様なものを造ること自体が大間違いなのである。

 

原発に関する2つのトリック

多くの人は原発に関する2つのトリックにかかっている。

 一つは電力供給量における原発の割合。その結果、原発無くして電力供給は成り立たないという話。原発は出力調整が難しい為に、動かす時はフルに稼動させられ、需要増減への対応を、出力調整が容易な火力発電などで行っている。だから供給量における原発の割合は、事実であっても、こうした事情によるもので、例えば浜岡原発がすべて停止していた時には、火力発電など出力を上げることでその分を補って需要を満たしていた。

もう一つはコストが低く、そしてCOを運転時には出さず地球温暖化防止に役立っているという話。コストとしては、運転中の状況だけでなく、原発の建設・廃棄、ウラン精製、廃棄物の処理等、全てを計上しなければならない。ところが現状において、放射性廃棄物の処理は確立されておらず、どうそのコストが計上できるのだろう。また今回の事故によって安全の為に更にコストをかけなければいけない事が分かった。送電ロスという問題もある。需要が大きい都市部に原発は、現実問題として造れず、遠くから送るわけで送電コストがかかる一方で、送電ロスは大きくなる。今回の事故で気が付いた事だが、福島原発も柏崎刈羽原発も東北電力管内にありながら、東京電力の原発である。こうした事を考慮していけば、実際には莫大なコストがかかることが分かる。

そしてCOを出さないのは原発の運転時であって、原発の建設・廃棄、ウラン精製、廃棄物の処理等において、COを出している。その量はコストが未定であるように、未定であり、実際には莫大なものになるだろう。運転時だけでなく、停止時にも冷却が必要なことを今回知ったが、その為に使われた冷却水は温排水となって、直接、地球を温めている。

根本的な問題は、出力調整ができない為に電力が余る深夜に、料金設定を安くし、オール電化を勧めて、省エネどころか電力需要を増やしている点である。とても「温暖化防止時代の欠かせぬエネルギー源」とは言えないのである。

 

間に合わなかった脱原発

スリーマイル事故(79年3月)、チェルノブイリ事故(86年4月)を経て、88年頃、「広瀬隆現象」と言われる反原発運動が盛んとなった時期があった。広瀬さんの『東京に原発を』が出版された他、一主婦が書いた『まだ、まにあうのなら―私の書いたいちばん長い手紙』が草の根で広まった。友人が何冊も買って知人に配っていたのを覚えている。世界的には脱原発は多少進展していたが、最近のCOによる地球温暖化説によって、世界的にも原発推進の動きが息を吹き返した。脱原発は間に合わず、今回の原発震災を引き起こしてしまった。

喉元過ぎれば熱さを忘れる、と言う。事故は早く収束してもらいたいが、まだ熱い内にこそ、脱原発の流れを確実なものにしなければいけないと思う。

 

安全性の問題だけでは脱原発は難しい

脱原発と言えば、太陽光発電などの自然エネルギーに目が向けられるが、果たしてそれが本当に省エネになるか疑問である。それはともかく、そうしたもの一辺倒でなく、化石燃料を大切に効率良く使うシステムを取り入れていくのが現実的ではないだろうか。

電気を消費する場所で発電し、廃熱も利用するコージェネレーションというシステムがある。『食品と暮らしの安全』2008年5月号から引用しよう。

発電で電気エネルギーに変わるのは4割。送電ロスを合わせると7割が廃熱に。電気を遠くに運ばない社会にして、発電の廃熱も利用すれば、エネルギーの8割を利用できます。

 

実用化されている2000kw.以上の大型コージェネレーションを市町村や地域ごとに設置すれば、地域分散型発電も可能です。

デンマークではすでに政府が作る電気の50%以上はコージェネ発電です。

電力消費地で効率よい地域分散型発電にすれば、現在、原発が作っている電気の約2倍を有効利用できるので、原発は不要になり、大型火力発電所は災害時のバックアップ用になって日本は災害に強い国になります。

既にコージェネレーションは、中型は大型商業施設、ホテルや病院などに導入され、「エコウィル」という家庭用もある。

こうしたものが余り知られていないのは、電力業界の権益に反するからである。電力業界はそうしたものに対抗して、エネルギー効率の悪いオール電化住宅などを盛んに宣伝して広め、エネルギーの電気依存を高めようとしているわけだ。

原発を推進しようとする人々は、「経済発展(GNP増大)しなければいけない」、「その為にはエネルギーが更に必要だ」という考え方に呪縛されている。これではいくら省エネ技術が開発されても、消費エネルギーは増えていく。だから、エネルギーの安定供給の為に原発が必要だとならざるを得ない。この呪縛が解かれない限り、結論は決まっている。安全対策強化して原発を運転、そして増設である。

コージェネレーションが普及したとしても、私たちがこうした経済発展の価値観を持つ限り、再び原発は息を吹き返すだろう。経済を縮小化した中での幸福社会、それは自然と共生した社会であるはずだが、そうした未来社会を構想できなければいけないのである。それを念頭に置きつつ、先ずは日本から原発を排除し、次に世界から排除しよう。

参考:原子力資料情報室HP、『食品と暮らしの安全』2008年5月号・同年9月号

2011年4月清明)

◎脱原発には自然エネルギー一辺倒では失敗する

福島第一原発事故の余波により、浜岡原発は運転を停止させられた。不幸中の幸だが、停止中であっても安全というわけではないというのは今回の事故で初めて知ったところである。これがその廃炉への出発点、そして日本・世界中での脱原発の出発点となって初めて、「幸」と言える。

この間、脱原発へ向けて、自然エネルギー開発への動きが活発化してきた。それは嬉しいが、耕作放棄地などを使ったメガソーラー(大規模太陽光発電所)が中心であるのは不安を感じる。一つは食料の国内自給の為に再開されなければいけない耕作放棄地が転用されてしまうこと。もう一つは自然エネルギーの中でも特に効率が悪い太陽光発電にばかりに目が向けられている様に見えること。規模拡大や太陽光パネルの大量生産でコストが下がることは期待できるが、それが十分なものになり得るのか。この集中的な試みの失敗によって、原発に息を吹き返す機会を与えてしまうのではないかと心配する。

現在の発電システムの問題は原発中心であることだけでなく、原発や大規模発電所による集中型の発電・送電システムであることである。送電ロスの問題や大規模発電所が与える環境負荷の問題を減らし、また自然エネルギーによる発電を増やす為にも、分散型の発電・送電システムに変える必要がある。その地域で発電した電力はその地域で使い、余剰は送電網を通して他地域に回すわけである。大規模であると問題が生じる水力発電所や風力発電所なども小規模なものを、立地条件に合わせて選んで設けることができる。

発電の中核としては、発電の廃熱も利用する為に効率が良いコージェネレーション(天然ガス・石油・石炭・バイオマス等)を地域毎に設ける。そこからその地域へ熱エネルギーと電力が供給され、余剰電力は送電網から他地域に回すことができる。また電力の供給・需要を管理することがコンピュータでできる技術があるから、自然エネルギーの不安定分をコージェネレーションで調整するわけである。

現在の発電・送電システムでは、原発が出力調整できない為に余る深夜電力の料金を安くして需要を増やしていた。これは省エネに逆行していたわけだが、新しいシステムでは、需要に供給を合わせることができ、無駄な発電を抑えることができる。

脱原発から一気に自然エネルギーに向かう動きの根底には、CO地球温暖化説があり、石油埋蔵量が少なくなってきているという話がある。しかしCO地球温暖化説は科学的ではなく、政治的なものであるように思える。原発安全神話を多くの科学者が支持し、異論を唱える科学者が不当な扱いを受けていた様に、「科学」は名ばかりではないか。石油埋蔵量の数値は以前もそうであったように、固定的ではなく、増大が予想されるものである。また天然ガスもある。

エネルギーの大量消費を改め、自然と共生した社会に向かうと同時に、化石燃料を効率良く使うシステムを取り入れることが現状として確実な方法ではないか。

報道によると、超党派での地下式原発推進の動きがあり、それが脱原発を進めようする管首相降ろしにつながっているという。脱原発を確固たるものとし、将来の復活を許さない為にも、自然エネルギー一辺倒の動きは修正されなければいけないのではないか。

2011年6月)

◎〈都市の文明〉と〈里の文明〉

福島第一原発事故は未だに収束したわけではなく、放射能汚染は拡大している。そうした状況にも関わらず、未だに原発推進の考えを持つ人々がいるのはどうしてだろうか。今夏は多くの人たちの節電に対する意識が高く、「クールビズ」が本格的に取り入れられ、冷房の設定温度も実際に下げられている様子である。過剰冷房の為に、夏に寒さ対策をしなければいけなかったこれまでが余りにも異常だった。生活の仕方を変えれば、エネルギー消費は大きく減らすことができる。

ところが現代社会は暑さや寒さを避ける為に、自然と隔離したシェルターを作り、大量のエネルギーを使って、その内部を快適な空間にする方法を選んで来た。エアコンなどにより温度や湿度がちょうど良い様に制御された上に、鳥の鳴き声がスピーカーから流れ、花々の香りが機械によって振り撒かれて、自然が演出された。これが、今も災いをもたらしている原発を必要させてしまった現代の文明の象徴的なあり方である。

原発は、大量に放射性物質を撒き散らす今回の様な事故がなくとも、日常的に発電に伴って放射性廃棄物を産み出していて、その処理方法は確立されていない。つまり原発は命を育む母なる大地=地球を蝕む存在である。そしてその産み出す大量の電気に支えられた文明は、現代都市に象徴される様な「自然を支配」する文明である。この文明においては、環境としての自然も、内なる自然である私たちのからだも、蝕まれざるを得ない。

私たちは自然の中に生まれ、自然に育まれて存在しているのであって、その命の原点から離れることはできない。「自然を支配」するとは、その命の原点から離れることを意味する。現代の多くの文明病は元をただせば、そのことに起因する。

自然は私たちを育むだけでなく、時に脅威となる。それは今回の大地震・巨大津波が嫌と言う程、明らかにしたところである。こうした自然災害だけでなく、日常的に私たちは気候変化の影響を受け、病源微生物・毒物等にさらされて、時に私たちは病気になる。同じ自然現象でもその扱い方によって、人間にとって有害なものにも有益なものにもなる。私たちの祖先は自然の恵みをいかに享受するか、自然の脅威をいかに防ぐかに知恵を働かせて、文明を築いてきた。

その一つのあり方が〈都市の文明〉であり、季節・昼夜による自然の変化に無関係で影響されない生活を可能にした。もう一つは自然の変化に合わせた生活をし、自然に過剰に手を加えず、周囲の環境を里山・里海として育んで、自然と一体となって生活する〈里の文明〉である。ひょっとしたら〈都市の文明〉は人類にとって必要悪かもしれないが、現代はそれが私たちの生存を脅かす程にまで拡大している。〈都市の文明〉を縮小し、〈里の文明〉を拡大しなければいけない。

有機農業をする農家、伝統的な製法での味噌・醤油・酒・酢を造る職人、化学合成品を添加しない加工食品の製造者、新建材でなく天然木で家を建てる大工、・・、そして人間の自己治癒力を活かし、極めて簡素な設備で治療する鍼灸師。そうした人たちは〈里の文明〉に属している。協同して〈里の文明〉を拡大していこう。(2011年6月芒種)

◎〈都市の文明〉と〈里の文明〉―原発と鍼灸―

東日本大震災に鍼灸師は何を想うか

福島第一原発からは未だ放射能が漏れ、収束の予測は不確実で余談を許さない状況が続いている。東日本大震災が大地震とそれによる巨大津波による被害だけならば、災害は終わり、支援・復興だけが問題となっている筈だが、原発震災によって、未だ災害は続いている。この余波により、浜岡原発は運転を停止した。私が住んでいる浜松市は浜岡原発から四〇キロ圏内にかかる。不幸中の幸だが、停止中であっても安全というわけではないというのは今回の事故で初めて知ったところである。浜岡原発の停止がその廃炉への出発点、そして日本中、更には世界中での脱原発の出発点となって初めて、本当に「幸」と言える。

さて、今回の原発震災を含む大震災に対して、鍼灸によるいやしの道を行ずる者――単に鍼灸師と言ってもいい――は、何を思っているのだろうか。

阪神・淡路大震災の時と同様、被災者の心身をケアする為に被災地に向かった人たちもいた。検査機器・薬品等が不足し、西洋医学的治療が機能しない中でも、私たちはほぼ問題なく治療することができる。通常の鍼が使えなければ、鍉鍼を使えばいい。指鍼(指圧)でもいいだろう。日頃の研鑽が活かされる。私の患者である看護師が勤める病院の医師が、被災地支援から帰って来て、盛んに「人生観が変わるから」と被災地支援に行くことを勧めていたという。一人の鍼灸師が支援に行って、何程になるのかと思うかもしれないが、そうした小さな動きが大きな動きにつながるわけだ。そして自分自身にとっては大きな体験となるだろう。多くの仲間が被災地へ向かって欲しいと思う。

そして、こうして被災者のケアに鍼灸を役立てようとすると同時に、今も災いをもたらしている原発と、原発を必要させてしまっている現代の文明というものにも想いを巡らせて欲しい。

 

原発の属する文明・鍼灸が属する文明

原発は、大量に放射性物質を撒き散らす今回の様な事故がなくとも、日常的に発電に伴って放射性廃棄物を産み出していて、その処理方法は確立されていない。つまり原発は命を育む母なる大地=地球を蝕む存在である。そしてその産み出す大量の電気に支えられた文明は、現代都市に象徴される様な「自然を支配」する文明である。この文明においては、環境としての自然も、内なる自然である私たちのからだも、蝕まれざるを得ない。

私たちは自然の中に生まれ、自然に育まれて存在しているのであって、その命の原点から離れることはできない。「自然を支配」するとは、その命の原点から離れることを意味する。現代の多くの文明病は元をただせば、そのことに起因する。

その文明では、医療においても、自然との親和性がない、つまり不自然な化学物質を使ったり、高度に人工的な物理的処置をしたりする治療法が盛んに行われている。それは多量なエネルギーを消費し成り立っている医療である。それに対して、私たちの鍼灸はからだの自然治癒力を活かして治療する。それは極めて簡素な設備で行うことができる。鍼灸は原発とはその属する文明が違うのである。

日常的に治療院で鍼灸治療に明け暮れるだけでなく、私たちが生き活動している社会のあり方・文明のあり方に目を向け、想いを巡らそう。

 

〈都市の文明〉と〈里の文明〉

自然は私たちを育むだけでなく、時に脅威となる。それは今回の大地震・巨大津波が嫌と言う程、明らかにしたところである。こうした自然災害だけでなく、日常的に私たちは気候変化の影響を受け、病源微生物・毒物等にさらされて、時に私たちは病気になる。同じ自然現象でもその扱い方によって、人間にとって有害なものにも有益なものにもなる。私たちの祖先は自然の恵みをいかに享受するか、自然の脅威をいかに防ぐかに知恵を働かせて、文明を築いてきた。

その一つのあり方が、自然の季節・昼夜による変化に無関係で影響されない生活を可能にした〈都市の文明〉である。自然を大きく変容させた人工物と、原発等により産み出された電気等のエネルギーを多量に使い、自然を破壊し、自然環境と隔離された生活空間を拡大している。

もう一つは自然の変化に合わせた生活をし、自然に過剰に手を加えず、周囲の環境を里山・里海として育んで、自然と一体となって生活する〈里の文明〉である。

ところで、本来の自然・本来の地球にとっては、人間が自ら制御しきれない原発を造って、放射能汚染をもたらし、自ら苦しもうと、どうでもいいことである。人間にとって「汚染」であっても、自然や地球にとっては「汚染」ではない。人間が滅びた後でも地球は続く。緑豊かな自然が続くかということは本来の自然にはどうでもいいことである。私たちが「地球にやさしく」とか、「自然を守れ」と言う時の地球・自然というのは、人類を成員とする地球であり、自然である。それは人類が生きていける地球であり、自然である。こうした地球・自然にとって、原発は脅威であり、汚染源である。原発だけでなく、〈都市の文明〉はこうした地球・自然を蝕んでいる。

今回の原発震災に及んでも、原発を維持しようとしている人たちは、今のままでも足らず、更に〈都市の文明〉を拡大させようとしている。いやしの道を行ずる者は、この〈都市の文明〉の拡大に加担してはならない。そうでなければ、いやしを語りながら、いやしに反する事をしていることになる。

 

〈都市の文明〉を縮小し〈里の文明〉を拡大する

〈里の文明〉のモデルは、里山や里海を育み、その幸を活かして生活を営んできた農村や漁村にある。放っておけば原生林になる山に手を入れて里山を育て、放っておけば近づけない荒海に手を入れて里海を育てた。そこから食材や様々な生活の資材を得て、村民は暮らす。村民と里山・里海は一体となって生きている。そこには一方的な物質の移動ではなく、物質循環が成り立っている。だから豊かな自然と生活を維持することができる。その村を〈里〉と言う。

その〈里〉に私たち鍼灸師は入っていける。〈里〉における一つの職となり得る。有機農業をする農家、伝統的な製法での味噌・醤油・酒・酢を造る職人、化学合成品を添加しない加工食品の製造者、新建材でなく天然木で家を建てる大工、・・。そうした人たちと私たちは協同して、〈里の文明〉を拡大しよう。

現代の圧倒的な〈都市の文明〉の中で、日常的に他の分野での〈里の文明〉に属するものにつながっていくことが大切だと思う。ひょっとしたら〈都市の文明〉は人類にとって必要悪かもしれない。しかし現代は、それが私たちの生存を脅かす程にまで拡大しいる。それを縮小し、〈里の文明〉を拡大していかなければならない。

 

三月十一日以降の様々な報道に接し、改めて原発のことを考えた。放射能の影響が次第に私の家族にも近づいているのを憂い、被災地の支援に赴いた鍼灸師たちの活動をインターネット越しに散見し、私が想ったことである。

 

           (二〇一一年五月小満)

◎放射能汚染とどう向き合うか

加害(当事)国としての日本

中日新聞(2011/6/27)によると、ODA予算を使い、被災地の水産加工品を、放射性物質の安全検査をした上で買い上げ、食料支援に充てるという。いわゆる風評被害により売れない被災地の水産加工品を援助物資とするということである。

これを読んで、1987年のネパール滞在のことを思い出した。そこでの最も大衆的な飲み物は「チャー」であり、通常、甘いミルクティーを指す。ところがこの時は、私が立ち寄る様な大衆的な店では、全てミルク無しのものになっていた。

在住の日本人に聞くと事情が分かった。以前から、チャーに入れるミルクは輸入のスキム・ミルクを使っているらしい。そしてその時は、チェルノブイリ事故(1986年4月)の影響を受けたヨーロッパのスキム・ミルクが援助物資として入っていた。バングラデシュは断ったのに、ネパール政府は受け入れたのだそうだ。それに国民は抗議して、ボイコットしているのだと。

今回、日本がしようとしていることは、この時にヨーロッパがしたのと同じ様なことだ。被援助国の貧しさや放射能に対する知識の少なさにつけこんで、こうした形で処理するのは、潔いとは思えない。

日本は今回の放射能汚染の加害国に他ならず、私たちはやはり、その責任を負っている。チェルノブイリの時と違って、当事者であり、事故現場にいる。何らかの形で影響を受けざるを得ない。その覚悟は必要である。

 

受忍限度としての規制値

「安全・健康・環境」を優先し、国産にこだわる生活クラブ生協はチェルノブイリの時は、当時の国の規制値の10分の1で運用したが、今回は国の規制値で運用せざるを得なくなった。国の規制値を安全な基準として追認したわけではない。そうしなければ、消費者と国内生産者とで提携・協力して築いてきた体制を維持できなくなったからだ。しかし同時に全品目に渡る検査を実施して、その結果を公表し、組合員に判断を委ねている。

放射線には一般的な毒物にある無作用量がなく、少ないなりに影響があるというのが通説であるようだ。そうであれば、規制値というのは受忍限度としか定まらないことになる。規制値は厳しい程、安全となるわけだが、どこまで安全なものとするか、逆に言えば、どこまでの危険を受忍するかという問題になる。それは科学的な安全性判断の問題だけでは済まない。規制値を厳しくすれば、保障の為の資金が増大するだけでなく、新たに食料不足の問題が起こってくるなど、政治的・経済的・社会的な問題がある。そうした問題は国という枠においても、生活クラブ生協という枠においても生じる。そうした結果の規制値と理解しよう。

 

危険の甘受と無頓着

こうして、必ずしも安全とは言えない規制値を満たした食品に私たちは立ち向かうことになった。

時々、被災地を支援する為に、福島周辺の産品を買って食べようという催しが報じらる。こうした催しは、義援金や復興ボランティアと少し異なり、被災地の人々の自立を促し、確かに被災地の復興に役立つだろう。

催しに反対する気はないが、積極的に関わる気にはなれない。それは私が福島産の野菜や魚などを避けようとしているからだ。放射能汚染の影響を甘受しなければいけない面はあるが、放射能の危険性を甘くみてはいけないと思っている。危険性を覚悟した上で、あるいは安全性を確信した上で食べようとするのならば良いだろう。果たして、そうした認識がこうした催しの参加者にはあるのだろうか。放射能の影響は目に見えなく、分かりにくい。こうしたものに無頓着な態度は、一時的な被災地の復興に役立っても、大局としては、被災地を含む社会にとって良いものではない。「放射能はたいして危険ではない」という考えが広まるのは問題である。放射能の除染作業や汚染拡大の防止対策の手を緩めることにつながるだろう。原発の立地を許してしまう態度にもつながっている。

 

不自然な添加物、薬剤、そして放射能

今までも、私たちは不自然な食品添加物や農薬使用の野菜や薬剤使用の肉・魚に囲まれている状況の中で、それをなるべく避けて食品を選び、生活してきた。「ただちに健康を害」する食品は規制されているが、長期的な問題、複合的な問題、慢性的な毒性を考えると、私は一般の食品を日常的に無頓着に食べる気にはなれない。しかし多くの人たちはこうした問題には無頓着で、値段の安さや手軽さ、そして表面的なうまさで食品を選んでいる。この多くの無頓着な人々に支えらて、一般の店には、ほとんど不自然な食品ばかりが並んでいる。私たちがこれらを避けるのは単に自らの健康を求めてだけではない。こうした食品を避け、まともな食品を買うことで、まともな食品を作る人々を応援し、少しでも社会にまともな食品を増やしたいからである。

そして今、避けるべき危険性としての放射能がそれに加わった。違うのは、生産者に責任はないということである。汚染は薄まっていくが、海洋汚染や汚染物の流通によって次第に広範にわたっていく。甘受しなければならない機会は増えていく。

 

避ける以外の対策

最も私が悩んでいたのはお米のことである。10年以上前から、茨城の農家から無農薬栽培の玄米を購入している。私の家族は、子供が給食を食べる以外は、ほとんどこのお米を食べている。茨城県の検査ではその地域の玄米は「不検出」(20㏃/㎏未満)であるが、お店で買っているのであれば、茨城産は避けるだろう。放射性物質は特に糠部分に蓄積するから、胚芽米・白米ならばまだ問題少ないところだが、玄米で食べている。玄米で食べたいからこそ、無農薬米を求めていた。

悩んだ末に、こうする事にした。先ず可能な限り昨年度産米をお願いする。昨年度産米であれば、玄米として食べる。新米は胚芽米として食べるが、今まで以上に雑穀等を混ぜて食べる。雑穀等を混ぜるのは、糠除去により失われたミネラル等の微量栄養素を補う為だけでなく、放射性のミネラルをからだが吸収する前に、同族ミネラルで満たし、それらの吸収を防ぐ為でもある。

放射線による影響は他の毒物とは違うと言われるが、その受け手である私たちのからだの状態によって左右されることは変わらないだろう。癌細胞の発生が通常より増えても、それを迎え撃つ免疫力の大小によって、癌が定着するかが決まる筈である。これまで以上に体調を整え、健康を保つことが確実な対策であることは間違いない。

さて、私たちは原発を造らせてしまっていたことで、今回の放射能汚染の加害者でもある。脱原発に向かった社会の動きを、無頓着な政治家に逆戻りさせてはいけない。再び加害者となり被害者となるのはごめんである。

2011年9月白露)

参考:『食品と暮らしの安全』2011年7月号・8月号、

土壌肥料学会HP及びWINEPブログ

◎新たな風土病(放射線障害)の出現

鈴木斉観(せいかん) 

放射性物質に汚染される風土

放射性物質はどんどん日本国内に分散されている。汚染地域の農産物を通して、更に福島周辺の瓦礫や放射性物質が降り注いだ東日本におけるゴミ焼却灰や下水汚泥、浄水場汚泥の処理を通しても、分散されようとしている。他の毒と違い、放射性物質はそれ以上分解されない毒である。改めて説明するまでもないと思うが、「除染」とはこの毒を他へ移すことで、無毒化することではない。福島周辺が濃かった汚染地図は、農産物や瓦礫を通して除染され、日本全体に拡散したものとなる。日本全体が薄っすらと放射性物質で汚染されている状態をイメージして欲しい。何を食べても、ある程度の放射性物質は含まれている。日本はそういう風土になるわけである。

放射性物質を含有した農産物は食べられ、その放射性物質の一部は便として排泄され、その土地を汚染する。残りは体内に取り込まれるが、長い間には次第に排泄され、その土地を汚染する。一部は死ぬまで体内に残るが、死んだ後に火葬・埋葬されると、やはりその土地を汚染する。そしてその土地で育てた農産物に取り込まれる。その放射性物質は何度も何度も体内に入って来る。放射性を失うまでは毒として、ずっと循環し続ける。私たちは被爆し続けるわけである。

農産物に対する規制値が甘い状態は汚染地の農家には一面良いことだろう。農産物が売れるだけでなく、その農産物を通して農地の除染をすることができるからである。これが福島周辺の人たちばかりに負担を負わせない方法と言うわけだろうか。

ドイツ放射線防護協会の勧告(2011年11月27日)*1を一部、要約する。「焼却されたり、その灰が海岸の埋め立てなどに利用されたりして、汚染物質は日本全体へ分散され始めている。放射線防護の観点からすれば、これは恐ろしいことだ。放射性物質はどんどん環境へ拡散されている。」「日本における食品の規制値は、商業や農業の損失を保護するもので、国民を放射線被害から保護しない。」「チェルノブイリ以降、ドイツでは数々の調査によって、胎児や子供が放射線に対し、これまで考えられた以上に感受性が高いと分かっている。西ヨーロッパでは、乳児死亡率、先天的奇形、女児の死産の領域で、大変重要な変化が起こっている。」

 

放射線障害はどう起こるのか

「国会は何をやっているのですか」と叱責して有名になった児玉龍彦氏(東大アイソトープ総合センター長)の国会における意見陳述*2を一部、要約する。「内部被爆での一番大きな問題はガンです。DNAが切断されるからガンが起こる。DNAは細胞分裂する時に不安定になる。その為、胎児、幼い子ども、成長期の増殖盛んな細胞に非常な危険を持つ。大人でも増殖が盛んな細胞は障害を受けやすい。」

吉田幸弘氏(遺伝子学者)のもの*3を一部、要約する。「微量な放射線でも、それなりに生殖細胞の遺伝子に突然変異が起こし、子孫に弱有害遺伝子を伝えていくことは、動物実験で証明されている。」「弱有害遺伝子により、頭や体が少し弱くなったり、少し感染症やガンにかかりやすくなる。」

通常、私たちがイメージする毒と違い、遺伝子レベルでの毒であるわけである。

国の規制値は安全性よりも短期的な経済性から決められていることは明らかである。食品について、ドイツ放射線防護協会は「成人は8ベクレル未満/㎏」を提言している。それに対し、日本の暫定規制値は500。見直し(4月から)案では100となっている。アメリカなどでの規制値に比べて厳しいという説明がなされる場合があるが、放射性物質汚染の危険が余り考えられない通常時と、広島原爆数十個分に相当する多量の放射性物質が排出されたと考えられる今回とでは状況が異なっている。

水俣有機水銀中毒事件を思い出そう。政府は確たる証拠がないと、チッソの工場の操業が中止せず、水銀は垂れ流され続け、被害を拡大させた。同じ様に、低線量の放射線による障害の確たる証拠はないと放射性物質が拡散させられている。疫学的に明らかになってくるのは数十年後だろうか。その時には既にこの風土は十分に汚染されている。新しい風土病の出現である。常に放射性物質を気にしていなければいけなくなる。

 

福島に放射性物質の貯蔵施設を

この毒から日本の風土を保全し、私たちを守る為には、この毒の封じ込めしか考えられないのではないか。福島第一原発周辺の高濃度な汚染地域に広大な放射性物質の貯蔵施設を造り、そこに封じ込める。福島第一原発周辺地域の住民の故郷を更に奪うようなことかもしれないが、除染に何年もかかり、そこで暮らすことが放射線被爆を強めることを考えれば、十分な補償を受け、新天地での生活に踏み出せる方が良いのではないだろうか。「復興」の旗印が真実を見えなくさせている。

現在、汚染地域で除染により集められた汚染物は、安全な形で貯蔵できているわけではない。今後、除染が進められても、このままでは、ある場所の放射性物質が減っても、他に移されているだけで、全体としては変わらない。風雨にいつまでもさらされれば、他の地域に流れ、海に流れる。日本の風土は汚染されていく。政府は福島第一原発事故に対して、「収束宣言」を出したが、今だ放射性物質を排出しているし、高濃度な汚染水が発生している。海洋投棄が再び考えられているようだが、それでは日本どころか地球全体に広げてしまうことになる。

政府は原発事故や放射能汚染について、国内はもちろん国外においても、もう終わったことにしてしまいたいわけである。早く原発事故のことを忘れてもらい、放射能に対する関心をなくして欲しいわけだ。事故以前の価値観で「経済発展」を進めたいというわけだ。

 

地球が汚染される

「脱原発」の流れは「脱原発依存」という原発維持に舵を切られてしまっている。正常に稼動している原発からの放射性廃棄物の処理の目途もたっていないにもかかわらず、今回の事故の経験を活かして、世界一安全な原発を開発し、輸出するのだと言う始末である。日本はもちろん地球全体の放射能汚染を想像できないのか。日本よりも非民主的な国が世界にはある。経済性の為に日本以上に安全性をないがしろにする。そうした国で事故が起これば、悲惨である。例えば中国で起これば、黄砂の様に偏西風に乗って、どんどん放射性物質は日本へやって来る。日本において脱原発をするだけでなく、世界に対しても脱原発を働きかけていなくては、今回の原発事故に対する責任は果たせないだけでなく、たいへん危険なことになる。(2011年冬至)

*1:「Eisbergの日記」(http://d.hatena.ne.jp/eisberg)

*2:インターネット「衆議院TV 厚生労働委員会」

*3:『食品と暮らしの安全』2011年7月号