◎健康の為に、何をどう食べたら良いか

 東洋医学的な考えを基本に、何をどう食べたら良いかをまとめてみました。日常の食生活をこうしたものに近づけていって下さい

 

  (1) 旬のものを食べる。   ――身土不二(しんどふじ)――

  (2) 偏りなく食べる。   ――全体食――

  (3) 決まった時に腹八分目 ――節度――

  (4) 化学物質を避け、自然品を食べる。   ――“いのち”を頂く――

 

巷には「健康食品」という名の不健康食品が溢れ、 特定の食品が万病に良いと過大な宣伝をする民間療法の情報が飛び交っています。日常の食生活をなおざり にして、この様な情報に右往左往するのは止めたいものです。食品を薬のように使うことはそう簡単な事ではなく、過ぎれば新たな病気を起こす要因となります.同じ症状であっても異なった病態がある。ある症状 に効く薬や食品は、他の面には悪影響をもたらす可能性がある。悪影響の研究は少なく、長期的な研究は困難である。このような視点を持つ事が大切です。

 また、普通に食事できる人が栄養剤を取るのは、消化・吸収という働きを怠らせ、消化・吸収の機能を衰えさせます。

 ここに挙げた4項目を指針に食生活を改善させて下さい。完璧である必要はなく、またそれは無理な事だと言えます。完璧であろうとする心は逆にストレスを生み、それによる逆効果は大きなものになります。

 では、4項目それぞれについて説明して行きます。

()旬のものを食べる。  ――身土不二(しんどふじ)――

“身土不二”という東洋医学的な教えは、人とその住む土地(風土)とは一体のものであるという意味です.食の面では、その住む土地(風土)で自然に育つ物をその旬の時に食べることが良い、と教えます。旬のものは風味豊かで、その時季にからだが必要とする栄養を含んでいます。トマトやきゅうりを冬に食べたり、 南国から輸入されるマンゴやバナナを食べるのは、特別な時だけにしたいものです。

 近代栄養学は、栄養素に分析して、人にどう良いか悪いかを研究していますが、判っている栄養素以外の要素の存在やその構成形態の問題、また風土と関係など多くの複雑な観点を見過ごしているように思います。

 近代的な農業は、冬でも西瓜の栽培を可能にしましたが、それは栽培に多くのエネルギーを消費して、環境に悪影響を与えるだけでなく、からだにも良いものではないのです。遠く南国から運ばれて来るバナナは、輸送の為にやはり多くのエネルギーを使い、長待ちさせる為に防腐剤が使われるなど、様々な意味で良いものではありません。その土地で自然に育つ物を栽培するのが、資材も農薬も少なくて済み、最も効率良い筈です。それが行われないのは、多くの人が誤った食生活をしているからに他なりません。

()偏りなく食べる。 ――全体食――

 当たり前のような事ですが、意外に偏食をしている人が多いのが現実です。インスタント食品で腹だけ満たしているのは論外としても、野菜類の少ない食事をしている人が多いようです。おかずは薄味にして食材の風味を生かし調理して、ご飯ばかりにならず、おかずがたくさん食べられるようにします。

  主食(ご飯・パン・麺類)と肉・魚・大豆・卵等タンパク質の多い物、野菜・海草類をそれぞれ必ず食べるようにし、特に野菜・海草類についてはいつも同じ種類でなく、変わるようにします。芋類、根菜、葉物といろいろ食べましょう。そして東洋医学的な食養の考えとしての“全体食”を心掛けます。

 例えば、お米ならば、米全体つまり精白していない玄米を食べます。白米では、糖質ばかりになってしまいますが、玄米ならば、タンパク質、ミネラル、ビタミンを摂取する量が増えます。玄米は胃に負担がかかりますから、三分搗きをお薦めします。せめて七分搗き(胚芽米)を食べて下さい。農薬等は特に胚芽部分に残留しやすいと言われていますので、少農薬栽培米を食べて下さい。“全体食”は、つまり食材毎に偏食しないということです。

 大根は葉も食べられ、根よりもかえってカルシウム、ビタミンA、ビタミンCが多く含まれています。

  調味料についても、砂糖は、白砂糖など精製糖ではなく粗製糖を、塩は塩化ナトリウムばかりの塩ではなく、様々なミネラル分を含む自然塩を使います。

  “全体食”は、いわば食材を問わず、“いのち”を大切に丸ごと頂くという事です。近代栄養学に“いのち”の視点はなく、その行き着く先は、栄養剤です。

 風土に育まれた“いのち”をまんべんなく、御自分の“いのち”の為に頂いて下さい。それが本当の“全体食”であり、私たちも、いつか風土に戻るわけです。“身土不二”とは当にこの事です。

(3)決まった時に腹八分目  ――節度――

 腹八分目を心掛け、腹一杯食べないようにします。だいたい決まった時間に取るようにします。特にだらだらと食べるような間食は避けて、胃が空になる時間を作ります。胃腸は空腹時に最も大きな動きをしますので、だらだらと食べているとそういう機会がなく便秘し易くなります。食後は軽く運動するのが良く、特に夜寝る前に飲食するのは最も慎まなければいけません。のどが渇いている場合に水分を補給するだけにします。

()化学物質を避け、自然品を食べる。

  ――“いのちを頂く――

 化学物質(化学調味料・合成着色料・合成保存料・防腐剤・農薬・栄養剤等)を極力避ける。食材を生かし、生産者が手間を惜しまず作った食品には、“いのち”が生きています。そうした食品は本来の色・香り・味を持っていて、着色料・香料・化学調味料など化学物質は要りません。自然品が置いてある店を選び、また原材料表示を見る習慣をつけ、添加物の少ない食品を選びます。

 最近の環境ホルモン等の報道で判るように、生物的な毒とは違い、化学物質は生物に蓄積され、一定量になって影響したり、生物的な毒と違い表面化されにくいところで身体を害しています。

《斉観堂通信2号(2000年1月小寒発行)掲載》

◎鍼灸(東洋医学)と震災

阪神・淡路大震災の犠牲者を追悼し、震災・防災・福祉・ボランティアをテーマにしたイベント「未来に灯りを イン 浜松」(2001年1月14日)に鍼灸コーナー担当で参加するにあたって(2000年12月)

 

 現代の様々な問題に対する社会の動きを見ていくと、そこには、目先の即効的な成果を求め、目立たないが確実で根本的な解決をさぐる姿勢が少ないという共通点に気が付きます。最近の少年法改正や、臓器移植問題、生殖医療等はもちろん、震災対策も例外ではありません。

 震災による被害の大きさは、単に地震の大きさで決まるわけではありません。社会のあり方によって大きく変わります。阪神・淡路大震災の被害が大きかったのは、いわゆる都市化された社会環境によるところが大きいのです。建造物の密集、樹木等自然環境の減少、高層建造物、雨水が流れ込まないこと等による地盤の脆弱化、住民間の繋がりが希薄化しているなど日常の社会環境が、震災を大きくします。つまり震災は天災×人災であり、言葉を変えれば、襲う側と襲われる側の状態が組み合わさって、震災が生まれます。

 一般に震災対策の多くは、非日常的な特別なもの(防災)として行われています。家具の転倒防止、飲料水・食料の備蓄、避難体制の整備等が個人的な規模で、また地域的な規模で行われています。しかし、そういった防災対策以上に、日常での社会のあり方、言い換えれば、社会の体質を改善することで被害を減らすことができます。

 日常的な社会環境を問題にする為、実際どうするかは賛否あると思いますが、次のような事が考えられます。○建造物の密集の緩和。緩和できない場合には建造物の強化。今のように使い捨て文化の下での建造物では、災害に強い建造物はコストが高く建てられにくいでしょう。○危険施設(例えば原発)を減らすこと。○自然環境の保全。埋め立て地などは地盤が弱い。○危険物の使用を減らす。最近、学校で蛍光灯の安定器が破損し、使われていたPCBが子供に振 りかかるという事件がありました。PCBに限らず、例えば農薬など危険物の使用を少なくする必要があります。○人々の繋がりを含めた意味での福祉の充実。ボランティアの拡がりにも関連します。日頃からの繋がりは、そのまま非常時に機能します。関東大震災では、多くの朝鮮人が迫害されました。災害時に差別は増幅されます。社会的な弱者は災害弱者となります。日常的に弱者が存在し、差別されていれば、どうして非常時に弱者を救うことができるでしょうか。○・・・。

 地震を含む自然と共生し、人々が協働・共生する社会を作っていくことが、災害を大きく減らすことになるということが分かります。

 さて、病気というものに目を向けると、やはり、襲う側である病原菌やアレルギー物質(花粉・化学物質)、外力、寒さなどの気候等と、襲われる側である人の状態によって、病気の程度が決まります。カゼひきの人が多い中にいても、簡単に染される人とそうでない人がいます。花粉の飛散が多いといっても、皆が花粉症になっているわけではありません。同じような事故にあっても、ケガし易い人とそうでない人がいます。ギックリ腰は重い物を持ったことによってなると思われているようですが、くしゃみ一つでなる人もいるのです。重い物を持ったことやくしゃみは、最後の原因・きっかけであって、実はそれ以前より腰が異常であったわけです。直前に襲ってきたものが原因だと思い勝ちですが、襲われる側が既に原因を抱えているということに気付く必要があります。

 現代の医療では、からだを細分化して機械の様に捉える西洋医学が中心である故に、からだ全体を捉えることができず、症状がなくなれば良いというような治療が一般的です。襲われる側である人のからだの体質を改善していく治療に目が向けられていません。臓器移植や人工授精などのようななってしまってからの治療ではなく、ならない為の治療や生活にもっと関心がもたれるべきです。

 鍼灸をはじめとする東洋医学は、からだ全体を捉えて、局所の症状を緩和し、体質を改善します。カゼに対しては、ウイルスや細菌の力を弱め、自己治癒力を高めることでカゼを治療するだけでなく、カゼに罹りにくいからだを作ります。花粉症に対しては、局所的な炎症を弱めるだけでなく、アレルギー体質を改善します。ケガに対しては、ケガによる損傷の回復を速めるだけでなく、ケガしにくい柔軟な身体を作ります。

 この様な鍼灸(東洋医学)の有効性にもかかわらず、現代は西洋医学中心の医療体制であり、鍼灸(東洋医学)は一般化されていないのが現状です。現代人は忙しく、心を亡くしているが為に、日常的に病んでいる、からだの訴えが聴き取れないのでしょうか。それとも、鍼灸(東洋医学)を単なるリラクゼーションやツボ療法と誤解しているのでしょうか。(2000年12月)

《イベント「未来に灯りをイン浜松」(2001年1月14日)参加にあたって》

001年1月8日付朝日新聞に「石けんは合成洗剤より環境にやさしいという定説が揺さぶられている・・」という記事が掲載され、浜松市の市民団体『いもづるねっと』の会報2月号にも紹介されていました。それに対して、投稿した結果、4月号で他の批判記事や意見とともに掲載されました。(2001年4月13日)

 科学的知識との付き合い方を考え直すことが重要です。科学的な真実と真実とは違うということを常識とする必要があります。朝日新聞の記事は科学的な論争上での話で、科学の限界・性格をわきまえた内容にはなっていません。この記事によって、これまで消費者運動によって広まった合成洗剤を使わない方向の潮流が弱まってしまうのではないかと危惧します。以前の『買ってはいけない』論争も科学的真実の争いであり、専門家たちの意見に一般の人は右往左往することしかできないものとなっていたように思います。

 科学における実験というのは、必ずある限定された条件の下に結果を出しており、実は限定された条件の下での事実に過ぎません。そうした事実を論理的に結びつけたものが科学的真実です。そこに科学の限界・性格があって、それは仕方ないもので、科学は発展するに従い、その条件をより現実に近づけ複雑にして来ました。以前言われて来た科学的真実が翻されることは当たり前な事であるのに、多くの人は新たな科学的真実をまるでそれが最終的な結論と信じてしまうようです。「科学という宗教」の信者に他なりません。そして本当の科学者は、そうした限界・性格をわきまえた上で研究し、発言しますが、科学者自身が信者になってしまっている場合が多いのが現実です。

 根本的な性格の問題に加えて、経済的・社会的な偏向が更に科学的真実のあり方を左右します。合成洗剤を製造している大企業が、合成洗剤の優位性の研究を支援するのは当然のことです。産学協同が進む程、研究者の良心より、得られる研究費の大小やその後の地位のあり方が研究を左右します。

 私たちは、専門的科学者の発言を参考にするとしても、こうした科学の性格をわきまえる必要があります。更に重要なのは、自分の具体的な経験から考え、経験が培った感性を使って判断することです。

 合成洗剤に比べ、粉せっけんは簡単に作れます。日常的な手段で自然界にちょっと手を加えれば製造できます。だからこそ、1世紀頃すでに使われていたのです。そうしたものは、自然(環境)に優しいのではと私は感じます。

粉せっけんは有機汚濁が多いという朝日新聞の記事を参考にすれば、過剰な清潔感を改めて、洗う量を減らすことや、排水が直接下水や川に流れるシステムを改め、土中に流すようなシステムを構築する必要性が思い浮かびます。 

いもづるねっと会報2001年4月号掲載》