◎“からだをまるくする”って、何?

 現代人のからだ(心身)は、“気”場として診た場合、デコボコに歪んでいます。その歪み具合により様々な病み方をします。自覚症状がなくても、真の意味で健康とはいえません。症状は、そうした歪みの一部の現れであって、全体ではありません。様々な症状がある人や長年患っている人程、からだは歪んでいます。そうした歪みに合わせて治療するのが健康回復への早道で、歪みに合わせることのない万能薬や健康器具にはたいした効果は期待できません。

 “気”はエネルギーのようなもので、“気”を受けて、内臓等諸器官が正常に働きます。“気”の流れに滞りがない、“まるい”からだは、活き活きとしています。抵抗力があって病気になりにくく、なっても回復し易いからだです。歪みを減らし、まるくするのが、斉観堂の治療です。単に症状を取るだけではありません。

 病院では、例えば、耳の病気は耳鼻科、心臓の病気は循環器科というように分かれています。斉観堂では、例え、耳の病気で来られた人でも、先ず、からだ全体との関連を見極めます。その上で最もつらい症状を取ることを優先に治療します。ほとんどの場合、その症状の母体として、からだの歪みを抱えている為に、治りにくいのです。身体は各部分が密接に結びついて成り立っています。先ず、からだがあって、それを分けた場合に部分があるのです。部品を組み立てた機械と違って、先ず部品(臓器)があって身体があるのではありません。ところが、西洋医学は、人間の身体を機械のように理解しようとしていて、そこに限界があります。様々な症状があって、病院に受診し、様々の検査を受け、その結果、「あなたは健康で何も問題ありません」と言われ、それで納得しないと、精神安定剤のような薬を処方された経験はありませんか。病院の検査機器は、年々精密になって来ています。しかし、からだは、検査向けにできているわけではなく、常に検査に引っ掛からない要素を抱えています。しかも最近の医師は、検査値に頼り、触診等が不得意なようですから、「痛い」と訴えても、「痛み因子が測定されないので、あなたの思い過ごしだ」というようなことになるのではないでしょうか。検査の限界をわきまえ、患者の心に共感できる医師もいますから、これはもちろん、ひどい例かもしれません。限界をわきまえた上で、西洋医学の成果を活用することには、大きな意義があります。しかし現状では、異常があっても検査値に現れない場合があり、検査値に現れた場合でも、その治療は多くの場合、対症療法に過ぎないと言わざるを得ません。

 斉観堂では、からだの異常をの異常として診ます。からだを触れたり圧したりしていくと、様々な異常が判ります。熱い部分あり冷えている部分あり、堅い筋肉あり柔らかい筋肉あり、。堅さは同じでも、ある部分が圧迫感だけなのに、ある部分は痛い。痛いと言っても、気持ち良い痛さと嫌な痛さがある。柔らかいといっても、弾力がある場合あり、力ない場合もある。痛いというのは患者自身が感じることですが、の響きの違いとして伝わってきます。

  直接、を感じて診るだけでなく、脈診・舌診等でも、からだの状態を診ることができます。脈が速かったり遅かったり、堅かったり柔らかかったり、強かったり弱かったり、滑らかだったり渋ったりと。また舌を診ると、赤すぎたり白っぽかったり、濡れていたり乾いていたり、舌苔が厚かったり無かったり、白かったり黄色かったりと、やはり様々で、からだの状態が反映しています。

  の異常を無くして、歪みを無くす事が、斉観堂での治療であり、つまりからだをまるくするという事です。斉観堂は症状の有無を問わず、からだをまるくする事で、真の健康に導きます。

◎病気って、何?

 慢性病は根腐れした木のようなもの。対症療法では良くなりません。

 症状は病気の現れであって、その本体ではありません。頭痛がするから、頭痛薬を飲む。腰痛だから腰に痛み止めの注射を打つ。高血圧だから降圧剤を飲む。というような対症療法は、一時逃れにはなっても、病気の本体は形を変えて悪化していきます。慢性的な不調は、御自分の不摂生を――それが仕方ないものであるにせよ――そのままに、対症療法で済ませて来た結果に他なりません。そして、不幸な事には、病院で通常行われる西洋医学に基づく医療は、そうした病気の本体を見据えた医療にはなっておらず、ほとんど対症療法ではないでしょうか。救急医療や爆発的な症状による奪命の予防、不可避な外科手術など、優れたところはありますが、日常的な医療には向いていません。

 病気のからだは根腐れした木のように考える事ができます。枯れたり、実をつけなくなったり、害虫にむしばまれやすくなったりと、様々な症状が現れます。そうした木に肥料をやったり、消毒薬や駆虫剤を散布したりしても、効果は一時的でしょう。枝葉末節に囚われて、根本を見ないのが、こうした処置です。

 根本を見据えた処置は一見遠回りで、すぐには効果が現れない場合もありますが、一定の期間を経て、確実に効果が現れてきます。土作り・日当たり・風通しなど環境を整えていく処置がそれです。 そういう処置と平行して、対症的な処置を取る事はもちろん大切な事です。

 鍼灸を始めとするとする東洋医学は、症状をその現れている局所だけの問題と見ないで、常にからだ全体、特にいわゆる内臓など生命活動にとってより根本的な部分としての内部、との関連を捉えて治療します。東洋医学を木の処置にたとえれば、人が見てすぐ判る 枝葉の状態だけでなく、樹皮に覆 われた幹や土中に隠れた根の状態を視野に入れた処置と言えるでしょう。単に鍼を使うから、また生薬を使うから、東洋医学と言うわけではないのです。

 例えば、腰痛を訴える方のからだの場合、ただ単に腰の筋肉が悪いのではなく、胃腸などの機能が衰えています。それは、必ずしも御自分で自覚されていなかったり、病院の検査に引っ掛るとは限りません。急性的な腰の痛みは、すぐに楽にすることができますが、慢性的なからだの状態の改善には時間がかかります。その場合、慢性的な腰痛の治療は、同時に胃腸の治療にもなるわけです。

 深く根を下ろした病には、ある程度密度を持った継続的な治療が必要です。硬いつぼみがいつまでも咲かず、ある日突然、花開くように、良くなり方も一様ではありません。つぼみも表面では判らないような変化を内部ではしているのです。

 

◎〈“気”が滞る〉ことが病の始まり

  手で触れたり、かざしたりして、身体を診ると、“気”が滞っている部分では、暗く濁った感じがします。水でも、流れているところは澄んできれいですが、沼の様なところでは濁って汚れています。

 身体における“気”の滞りは、その部分の臓器が十分に働いていないことを意味します。胃の辺りにの滞りがあれば、胃の働きに何らかの問題があるでしょう。下腹にの滞りがあれば、おそらく腸の働きが悪く、便秘・下痢等し易い状況にあると言えます。下腹には膀胱・子宮・前立腺等もありますから、それらに問題がある場合もあります。

 水と同じ様に、“気”も長く滞れば、淀み、変質します。そうした“気”を、“邪気”と言います。粉挽きをさせていた水車は、川の水が滞れば、十分回らなくなり、粉を挽く能力が衰えます。更に滞り淀めば、水は腐って、水車が木製ならば、水車自体が腐ります。そうなると、川がきれいになっても、もう元には戻りません。 腐り変質した水からは、ブクブクとガスが発生し、周囲に悪臭を漂わせ、周囲の環境を侵します。周りの樹木草花などを枯れさせることにもなるでしょう。変質の程度は、川上から流れて来る水や周囲にどんな汚れ(雑菌等)があるかによって、異なります。

  “邪気”によって、臓器は侵されます。また、異常に働かされます。“邪気”の程度は様々で、ピリピリとしたり、ネットリとしたり、フワッとしたりと、能動的な感触があります。

空気中にも、体内にも常に、病原微生物が存在し、免疫力低下や拮抗関係にある他の微生物の勢力低下によって、勢力を増します。“邪気”とは、そうした病原微生物等のエネルギー的側面だとも考えられます。

 “邪気”に対して、臓器を正常に働かせる“気”を“正気”と言います。“正気”が身体に滞りなく流れ、各臓器が正常に働いている状態が、真の健康と言えるでしょう。“正気”は四時(春夏秋冬・朝昼夕夜)・気候に応じ、また身体の活動に応じて、必要な臓器に多く流れ、必要な機能を果たします。思考すれば、脳に多く流れ、運動すれば、筋肉に多く流れます。そして、その必要が無くなれば、そうした一時的な“正気”の偏りはなくなります。

 しかし、人は生活の中で、“気”を偏らせ、滞らせる様々な要因に出会います。例えば、いつまでもグチグチと思い悩む“思”と言う情動は、“気”を滞らせる大きな要因です。頭脳ばかり使い、身体を使わない仕事や生活は、“気”を脳に偏らせた形での滞りを慢性化します。食べ過ぎは胃腸に“気”を滞らせます。冷たい物の飲食は、胃腸の“気”の流れを遅くし、胃腸の働きを弱めます。

 様々な要因が重なって、“気”が滞り、それが長い間続き、慢性化します。“気”の滞りの慢性化は、“毒”という形で固定化します。長い間、胃腸の“気”が滞り、胃腸の働きが悪いと、飲食物の一部がいつまでも、胃腸管内に貯留した状態となります。そうすると、胃内停水や宿便という言葉で知られる様に、本来、命の糧となるべき飲食物は、水毒や食毒と化します。こうして胃腸の機能は慢性的に悪化します。

  血液の流れも、“気”が滞ることによって滞ります。長期に及べば、細い血管の血液は流れなくなります。貯留し、変質した血液を瘀血(おけつ)あるいは血毒と言います。血毒が形成され、正常な血液の流れが少なくなった部分の体温は、慢性的に低くなります。

 “気”の滞った部分、特に血毒が形成された部分は、免疫力が弱く、“邪気”にとって、居心地の良い環境です。“邪気”に侵され易く、侵されれば、それに立ち向かう為、“正気”が集まり、正常な血液が流入して来ます。冷えていたこの部分は、一転して熱を帯び、炎症と言われる状態が発生します。その人の生命力や、“邪気”の質・量、また場所により、その状態は異なります。

  血液は、全ての臓器に流れ、それらを栄養します。五臓六腑はもちろん、皮膚・筋肉・目・鼻・・・、そして、血管・神経にも血管が巡っています。血毒の生成により、それら臓器は慢性的に機能が減退します。

 筋肉では、“気”が滞れば、単に凝るだけでなく、緊張・弛緩・痙攣等を起こします。筋肉の慢性的な緊張・弛緩は骨格の異常にも及びます。例えば、背骨の右側の筋肉が緊張し、左側の筋肉が弛緩すれば、右側に背骨は曲がります。

 血管・神経の周囲の筋肉が緊張し、神経・血管を圧迫すれば、それらが分布する手足等に麻痺や痛みが起こります。

  この様に、“気”の滞りが、様々な病気に発展して行きます。